雪之丞、ラブレターをもらう

110520a1 世田谷の用賀駅前商店街に、岩手県陸前高田のアンテナショップ「田舎のおごっつお」が開店したことを新聞のニュースで知ったのは、確か今から一年ほど前だった。
 私にとって東北の三陸といえば大好物はホヤ貝で、特にホヤの塩漬には眼がない。家では私以外にそれを食べるものはおらず、どうしてそんなものを美味そうに食っているのかと怪訝そうな顔で見られている。
 先日も友人と食事中にこの話しをしたら「僕もホヤは嫌いです!」と言われてしまったのだが「それはまだ子供だということじゃないか」と言っておいた。
 
 そういうことで、ほぼ毎月、この陸前高田のアンテナショップに出かけては、ホヤの塩漬やその時々の美味そうなものを見繕って買っていたのだが、3月11日の大震災で陸前高田は壊滅状態となり、残念なことにアンテナショップも閉店してしまうのだろうと思っていた。
 ところがもともとこの店は用賀の商店街振興協同組合、そして用賀まちづくり(株)が運営していたようで、震災後、長崎の五島の物産などが穴埋めをしたり、震災義援活動を積極的に進め、陸前高田の復興を懸命にバックアップしている。
 何はともあれ、陸前高田のみならず東北の三陸地方が一日も早く再生して、また美味しいホヤがふんだんに食べられるようになることを願って止まない。
 
 その用賀のにぎやかな商店街とはちょっと離れた住宅街の一角に100CLUBのショップがある。スタッフ犬のスピッツ「雪之丞」は、ショップのカラス戸越しに道路を行き来する人たちを日がな一日眺めていて、散歩中の犬たちが通ると急に立ち上がって尻尾を振って歓迎の挨拶をしたり、時々、たぶん犬好きの方などはドア越しに「雪之丞」をあやして遊んだりしている。
 ある日、4~5歳くらいの男の子と女の子が、道路に直に画用紙を置き、這いつくばって一生懸命お絵描きをしていた。事務所の内からその光景を見ていると、どうも「雪之丞」をモデルにして絵を描いているらしい。
 しばらく時間が過ぎた頃、サッカーボールを持った少年がショップに入ってきた。傍らには、さっきまで絵を描いていた二人の子がそれぞれ画用紙を持って照れくさそうにもじもじしていた。
 少年が私に
 「雪ちゃんに手紙を書いたんですけどぉ・・・もらってくれますかぁ」
 と言った。
 「へぇー、ちょっと見せて。わぁー、すごいなぁ。上手だねぇ。どうもありがとう」

110520b1 ワカランチンの人間に対し、まるで犬が星を見ているようだ、という言い方がある。
 また、猫に小判というのもある。
 「雪之丞」に、この画というか、まさしくラブレターを見せたところでチンプンカンプンに違いないが、私にとっては天の恵みとさえ感じられる瞬間だった。
 このところ鬱積していた気分が一挙に晴れ、まるで自分がもらったラブレターかのようにわくわくしてしまった。
 犬や猫たちのことばかりに気を取られていたこの十五年間、改めて子供たちの一切穢れのない心に直接触れることができたこのたびの機会は、これからの私の残りの生き様にとって大きな糧となったとさえ感じられる。
 
 「良寛」さんの歌集『布留散東ふるさと』に3首の連作がある。

110520c1 子供たちの存在は、純粋であると同時に無限の可能性を秘めていることの魅力に尽きるのだと私は思う。いったい人はこの魅力を何歳くらいまで持ち続けることができるのだろうか。ここのところが、私の人間を見る眼の評価基準の優先第一位である。
 人間は、長じるとともに変質し、変容する。善くもなり悪くもなる。穢れもし傷も付く。
 そうしなければ生きていくことが難しい人間社会であることも原因なのだろうが、人間そのものの動物的特性なのかも知れない。
 「良寛」さんも、汚濁にまみれた生涯の晩年に行き着いた心境を詠った3首なのだ。
 それにしても人間という動物は悲しいものだ。1105201

 自分では自分の事がよく分からない。私など、とんでもない男に違いないと思うのだが、老いるということは、日々の出来事に反応し、身についた錆がパラパラと剥がれ落ちていくような感覚があって、ザワザワとしていた心中の波が少しずつ平らかになっていくことを実感している。
 子供に戻りたいとも思う事がある。
 そういう心根で、子供たちや犬や猫たちに接していることは何よりの恩恵で、これが商売でなければどれほど贅沢な毎日であることか。
 100CLUBを商売にしてしまったことが悔やまれてならない今日この頃だ。

 
scroll-to-top