生命に託された使命

もし、私たちの身の回りに犬や猫がいなかったとしたら、何とも殺伐とした生活になってしまうのではないだろうか。
また、もし私たちの目に毎日触れる花や樹がなかったとしたら生きる道標を失ってしまうのではないだろうか。


ありがたいことに、私には毎日一緒に暮らす犬がいるし、一年の季節を知らせる花や樹に囲まれた大いに恵まれた環境にも暮らしている。


東京のような都市にとって、公園の存在は大変ありがたいもので、良く手入れの行き届いた花や樹が目を楽しませてくれる。砧公園では1万本以上もの樹木があるのだそうだ。

毎日それを漫然と眺めているだけでは能がないと思い、先日公園の管理事務所を訪ね、公園に植樹されている樹種の地図がありませんか、と聞いてみた。


すると事務所の受付にいた女性が、4枚ほどの資料をコピーしてくれた。

そこには、公園の何処にどんな樹種が植樹されているのか、100種くらいが示されていた。

毎日公園の中を通っているのだから、これらの樹の1年間の姿を記録してみたいと思い立ったのだが、果たして貫徹できるかどうか自信はない。


ところで、犬も猫も、花も樹も、人間が適正な管理をしなければまともには育たない。

例えば、桜の名所といわれるところでは、何人もの桜守が年中管理を怠らない。

本当の自然林では、倒木更新や山火事など、また野生の動物では自然淘汰といったように、自然の摂理にしたがって輪廻転生が脈々と流れている。

しかし、一度人間が関わった自然、つまり、犬や猫たち、そして公園の樹木や桜などのクローン樹は、徹底的に手を掛けなければその生命を健全に保つことは適わない。


適正に手を掛けるということは、言い換えれば技術ということであり、巧拙が伴うことになる。

犬や猫の飼養にも巧拙があり、健全に育てることが巧みな飼い主であれば、犬も猫も立派で生涯健康に育つのであり、花も樹も、巧みに丹精を込めれば美しい花を咲かせることができるし、樹勢の乗った樹にも成長するのだ。


自然の生命に手を掛けるということにおいて、その結果責任は、すべて私たち人間に託されていている。

その技術の巧拙、愛情、情熱など、そういった要素が、私たちを限りなくなぐさめてくれる生命の命運を担っているといって過言ではない。

それらの1点でも欠けていれば、自然に手を掛けることなど、やってはならないことなのだと思う。

 
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