犬社会の闇

 三軒茶屋時代から始まったスタッフ犬たちの飼育は、これまで大過なく順調に進んできていた。
 生馬肉食の正当性を立証するために100CLUBに飼われる事になった秋田犬3頭、スピッツ1頭、シェパード1頭、計5頭の犬たちは、決して恵まれているとは言えない飼育環境ではありながら、とにかく健康で、毎日、ワシワシと馬肉を食べて100CLUBの経営を圧迫し続けているのだが、もしそのスタッフ犬たちがいなかったとしたら100CLUBの存在の意味も失われてしまう事は自明である。
 巷間、大型犬は短命だといわれている事に対し、そんな事はない、犬たちにとって正しい食餌を与えるならば長寿は適う、という課題も、いよいよこれからが実証段階に入ってくる。
 
 そんな矢先、目的の道半ばに、実はとんでもない事件が起こってしまった。
 「虎次郎」の両眼が結膜炎のように真っ赤になり、毎日目薬を差していたのだが一向に改善しないどころか、白眼のところが赤くなっているだけでなく、瞳に薄いブルーの膜がかかるようになってきた。これは一刻も早く眼科の専門医に診てもらうより手がないと思ったのだが、このGWの只中でおそらく診療をしている眼科はないだろうとあきらめかけたのだが、余りに辛そうな様子なので何とかならないかと必死な思いで調べあげた結果、文京区にある専門医のところで診察を受けることになった。
 
 1時間以上にも及ぶ、超音波検査、血液検査等々を経て暫く待たされた上の専門医の見立ては、九分どおり免疫介在疾患で、「フォクト=小柳=原田病様疾患」という秋田犬やハスキー犬などにある遺伝性疾患で、眼球のブドウ膜炎を引き起こし、角膜炎や結膜炎、緑内障などを併発し眼がにごったようになる。このまま進行すると、網膜はく離や緑内障となり失明の恐れもある。あと2~3日連れてくるのが遅れると失明の危機だったとも言われた。
 血液検査もデータ的には全く問題なくホッとしたのだが、このような遺伝性疾患、秋田犬の、とりわけ虎毛の犬に多い症例なのだそうで原因はよく分からないのだというのだからどうしようもない。
 この状況では、即刻、免疫療法剤(ステロイド、抗がん剤)を点滴しなければならない、との説明があり、「虎次郎」はすぐに1時間ほど点滴を受ける事になった。
 5月のGWの3、4、5の3日間の点滴治療で、その後はステロイド剤を飲み続けるより仕方がないのだが、この病気は再発する可能性が極めて高い病気であるとも言われた。
 
 私は、このHPの中でも、健全なペット社会を構築するためには、遺伝性疾患の撲滅を第一義的課題として提言を続けてきた。その張本人が、100CLUBと運命を共にしているスタッフ犬に遺伝性の疾病を持った犬が入っているとは想像もしていなかった。この遺伝病は発症するまで気付かない病気であることも知らされたが、そうだとすると世の中の秋田犬には、この遺伝病を潜在的に持っている犬たちが多数いる事が十分に推測できる。
 
 そして、1週間後、指示通り再診に行ったところ、念のために血液の抗体/抗原検査を出しておいたところその結果が出て、Bruc(ブルセラ・カニス抗体)が陽性反応がでた、との説明を受けたが眼の病気とブルセラ病の因果関係の有無についてはわからないといわれた。このブルセラ病は人畜共通の感染症であるところから、産業動物(牛、豚)などでは殺処分が法的に定められているのだが犬の場合は義務化されてはいないという。このブルセラ・カニスは、犬の生命を脅かす病気ではなく、流産を引き起こしたり不妊症になったりする病気で、したがって避妊、去勢した犬たちにとって被害を及ぼす事はないのだが、ごく稀にブリダーなどには感染例がある。(犬のお産を手伝った際、胎児及び胎盤を素手で触った)
 感染力は弱いとされているのだが、ヒトへの感染例では、発熱や肝機能障害を起こした例が報告されているのだという。
 この病気は、抗体/抗原検査を受けない限り発覚しない病気であり、また抗生剤の長期投与をしても完治することのない感染症である、とのことだ。
 この感染症は保健所のデータによると5%前後の犬たちが罹患しているといわれている。これが犬ではなく、自動車や電化製品だとしたら即刻リコールなのであって、それを放置している行政は一体何を考えているのだろうか。
 
 私の頭は混乱の極に達した。
 あらゆる伝手を頼って、獣医師数箇所、保健所、友人などにこの事実を伝え相談をした。様々なアドバイスを受けたが、いずれにしても最善な策をしかも早期に実践しなければならないことを肝に銘じた。
 このような事態になる以前に何かしておかねばならなかったことがあったのか。こうなった以上私の立場上、即刻行動しなければならない事とは何なのか。
 2つの奇病に罹患してしまった「虎次郎」に対する想いは何にもまして耐えようもなく胸を突くのは当然だが、その悲しみに呆然としているだけで済む話ではない。
 他の犬たちは罹患していないのだろうかどうか、即刻、抗体/抗原検査を行った。その結果が出るまでは十分な管理体制で飼育しなければならないことは当然な事だ。
 そして「虎次郎」は、この感染症がごく稀にしても濃密な接触によってヒトにも感染する可能性があるということであり、完治の見込みがない以上、断腸の想いいを持って先に逝ってもらうことが最善の策であろうとの結論に至った。

1005201 自分の胸の内は自分で癒すほかなく、また、もう少しすれば私も「虎次郎」のところに逝くのだから、先に逝って待っていろよ。そう思うしかない。
 今回、私共で起こった問題で、最も優先されなければならないのは他に迷惑を及ぼさないことに尽きる。
 それにしても、「フォクト=小柳=原田病様疾患」も、「ブルセラ・カニス」にしろ、前者の場合発症前にはチェック不能であり、後者の場合、特に去勢、避妊手術をした犬たちの場合、発症すらしない病気であり、したがって感染の有無は抗体/抗原検査をしない限り潜在したままでいることになる。
 抗体/抗原検査をしない以上、この感染症を持っているかいないのか犬の世界においては全く放置されたままになっている。
 
 このたびの体験について、私個人の一切の感傷をここに書き連ねる気持ちはない。
 同時に、己の行為の正当性も、犬側に立ったとしたら確信がない。
 ただ、思いもよらなかった出来事で、現代日本のペット社会に根深くはびこる根源的な問題に直接触れてしまったことの衝撃は計り知れない。
 これからの私は、命の続く限りこのような疾病の撲滅のために戦い続ける事を決断した。そうしなければ「虎次郎」の死は無駄死になってしまうのではないか。
 
 たまたま、この最中、私は2冊の本を読んでいた。
 その一冊の本は哲学者、マーク・ローランズの「哲学とオオカミ」で、オオカミと10年間生活を共にして思考した結論として、私たち猿から進化した人間と、そうではないオオカミとの行動心理には大きな落差があるという。その結論に照らすならば、このたびの苦しみぬいた上での決断は、少なくとも猿でなくオオカミが選択するであろう、死することへの勇気を多少なりとも見習ったような気がしている。

 
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