メダカの学校

前々回のコラム「花咲か爺さん」で書いた、睡蓮鉢の中に飼っていたメダカ数匹が卵を持った。
そのままにしておけば、卵からふ化したメダカの子たちは、親メダカに食べられてしまうであろうことは確実なのだが、それでも自然に任せればいいと放置しておいた。
ところが、魚は大嫌いだったはずのスタッフの大平が、何処から調達したのか、ガボンバ(金魚藻)を入れた小さな水槽を用意し、睡蓮鉢の中から卵を持った親メダカを小さな網で追いかけ回し、捕まえては水槽に移し産卵させた。
その結果、50匹以上ものメダカがふ化した。四六時中水槽を覗き込んで、せっせと水換えをしたり餌を与えたりしている。何故、こんなにもメダカに夢中になっているのか、その理由が何なのかよく分からないが、大平の優しさの発露には違いない。

0912051

 睡蓮鉢の水中は、メダカの生育にとっての好環境がおのずと整っている。メダカの餌も水中にプランクトンが自然発生し、生態系(ビオトープ)が完成されていて、メダカに餌をやる必要もない。この好環境は、別個に餌を与え過ぎたり、メダカの数を増やしたりすることですぐに破壊されることになる。
このような、理想的な好環境を保つためには、鉢の中の水中という、ごく狭い世界において可能なのであって、極端にそのスケールを大きく考えたとき、たとえば地球規模で考えると、その環境を維持することはほとんど不可能で、現状は抜き差しならないほど危機的な状況にあることは衆知の事実であろう。

自然界にあって、食物連鎖の頂点に立つのは肉食動物だと思っていたのだが、今や人間が万物の頂点に位置することで、その、敵とみなされた肉食動物は駆逐され絶滅の危機に瀕している。肉食動物のみならず、地球環境そのものも、おそらく回復不能で、人間自身の絶滅も視野に入ってきているようだ。
思えば、人間という生き物は、どうしようもなく醜い動物のようで、かくいう自分自身もその代表格だと自認しているのだが、懺悔をしてもし尽くせないほど煩悩に突き動かされてしまう。

肉食動物である犬や猫たちは、そんな恐ろしい人間に、実に巧妙に取り入る技を身に着けることで進化してきて、ついに人間の家族の一員としての座を確保するにいたった。
それでもやっぱり人間という動物は恐ろしいもので、犬や猫たちに「ペット」という薄ら寒くなる様な記号をつけ、神や仏でもないのに人間の得意技である「愛」をやたらと振りかざす。挙句の果には、子供が飽きた玩具を放り出してしまうように棄ててしまう輩までもいる。それを助けなければならないという動物愛護に熱心な方たちもいて、年間30万頭以上にもなる殺処分になる犬や猫たちの里親探しに奉仕している。
棄てる人がいてそれを助けようとする人たちがいて、それでも一向に殺処分を受ける頭数が減らないスパイラルに陥っている状況だ。
先日の裁判で、それが真実なのかどうか分からないが、本人の言い分によると、子供のころ可愛がっていた犬が狂犬病の予防接種をしなかったため保健所に連れて行かれ、その結果殺処分になったことに恨みをもって、厚労省の官僚OB夫妻を刺殺した者まで現れた。

昔、「Teacher’s Pet」(先生のお気に入り)というハリウッド映画があり、私のお気に入りであるドリス・ディ(以前のコラム「DORIS DAY AGAIN」をお読み下さい)が主役で、その主題歌も大ヒットした。相手役はクラーク・ゲーブルだった。
しかし、この「Teacher’s Pet」の「Pet」という言い方がどうにも気に入らなかった。おそらく、フェミニズムやジェンダーフリーの上野千鶴子先生や田島陽子先生だったら、烈火の如くお怒りになるだろう。
私も、この時以来「Pet」という記号で犬や猫たちのことを表すことは極力避け続けてきたのだが、その代案も容易には思い浮かばない。

ところで、メダカの子たちは水槽の中でずいぶん大きくなってきた。さあ、この50匹以上もいるメダカの子をこれから先どうするんだろう。
睡蓮鉢の水中に網を突っ込んでかき回した時、その行為は小さな生命を守ってあげようとした善なる精神であったのだろうが、メダカの親たちにとっては恐ろしい怪物が表れさぞや恐怖におののいたことだろう。
そして、ふ化した子メダカたちを睡蓮鉢に戻したとすれば、おそらく親メダカにすべて食べつくされてしまうだろう。
川に放しても同様なことが起こるだろうし、大事に育ててくれる方に差し上げるか、新たに大きな水槽を用意して飼い続けるより仕方がないが、そうすると来年には、二つの水槽から大量のメダカの子が生まれるに違いない。
つまり、人間が自然界に手を突っ込んで起こり得る事態とはこのようなことであり、善なる精神を保ち続けることがはなはだ困難で、どこからかは収拾の付かないことになってしまうのだ。

花を上手に栽培する人がいる、犬や猫と本当に良い関係を作れる人もいる。
振り返って、自分はどうなんだろう、と考えてみると、すぐに、偉大なナチュラリスト、ターシャ・テューダーのような人が思い出され、とてもじゃないが生意気なことを言う資格などまるで無い事に気付き、俗物きわまる自分に打ちひしがれてしまう。

 
scroll-to-top