極上の猫小説

 

 久しぶりに谷崎潤一郎全集を引っ張り出してみたついでに「猫と庄造と二人のをんな」を読んでみたくなって、これも再読することになった。
 この作品は谷崎の名作とされ映画にもなった。
 庄造役は森繁久弥で、この作品とその前年に作られた織田作之助の「夫婦善哉」の柳吉役は、甲斐性なしのダメ男を演じることで森繁久弥は名優としての確固たる地位を獲得したと言って間違いない。
 
 猫を愛してやまない文人、墨客は枚挙に暇がない。

 「吾輩は猫である」の漱石、猫の画家とも言われる藤田嗣治などは誰でもご存知だと思うが、「猫と庄造と二人のをんな」の作者、谷崎潤一郎も無類の猫好きで、この作品の狂言回しの、庄造が溺愛する猫「リヽー」の描写は、猫キチでなければ表現できないであろう猫の生態に対する描写が精緻に書き込まれている。1107061

 小説は、庄造の先妻の品子(映画では山田五十鈴)から後妻に入った福子(映画では香川京子)への手紙から始まる。
 そりの合わない姑のおりん(映画では浪花千栄子)の画策もあって追われるように離縁してしまった庄造への未練、福子への嫉妬がひた隠しに隠され、その面についてはこれでもかというくらいの言い訳を書き並べる。そして、猫の「リヽー」だけは何とか引き取らせてくれないか、と頼み込むのだ。品子にとって「リヽー」などは本当はどうでも良いのであって、女の意地の精一杯を手紙に込めるのである。
 さて、この手紙を受け取った福子もまた、日頃の庄造と「リヽー」の関係にやきもちを焼いていて疎ましく思っているものだから、この機会に「リヽー」を品子にやってしまうよう庄造にせがむのだが庄造は容易に納得しない。
 おりんも含めて庄造の家に巻き起こる「リヽー」を巡っての心理劇は、俗悪な人間の本性を暴いて滑稽の極みとも思えるドラマが展開する。

 文芸評論家の伊藤整は、


「人間は愛という口実で自分の立場を有利にしようという打算のみをしていることをまざまざと感じさせる点で、これはリアリズム小説でありながら、本質的に一種の思想小説になっている」

と鋭い洞察を記している。
 
 どうでもいい余談になるが、私が未だ多感であった頃この小説を読んでから、私の女性観は決定的なものになってしまった。女性に対する過剰な畏怖心だ。
 女性のみならず、男も、人間の中には複雑で奇怪なものが潜んでいる。
 それに比べて猫にしても犬にしても、そういう面倒くさいものを持ち合わせていない。
 この小説における「リヽー」も特別な猫でもなんでもない。
 その、どこにでもいる何でもない普通の猫を巡って翻弄される男女の愚かさは、猫を話の中心に据えたことで、いやでも鮮烈にその対照が強調されるのだ。
 
 今、日本では、犬ないし猫を飼っている所帯数は4分の1に達するというデータがある。
 そうなると、多かれ少なかれ、それぞれの家庭で犬や猫を巡っての悲喜劇が繰り広げられているに違いないと推察する。
 犬や猫たちがいなくても、人間社会は悲喜劇、賢明愚昧の連続で、とりわけ「愛」という人間社会においても、どうにも結論がでない概念をペットの世界に持ち込むと、ほとんどまともな論理は崩壊に至る。
 
 私自身も、もの心が付いてから今まで、犬から猫たちに始まって、観賞魚、小鳥、亀など、生活の中にペットがいなかったためしがない。
 そして当然の事ながら、これらのペットたちとの物語は話し始めたらきりがないほどだが、良かれ悪しかれ、そのことが今の私の精神構造に少なからず影響を与えているような気がする。
 実は今でも、土佐金という金魚、それに白文鳥、そして猫も飼いたくてたまらないところを周囲からの猛反対でひたすら我慢している情けない身なのである。
 土佐金の、反り返った花びらのような尾ひれを振りながら泳いでいる姿の何と美しいことだろうか。
 真っ赤なくちばしの白文鳥のつがいが、仲むつまじく交尾にいたり、卵を産んで温め、卵から孵った雛にせっせと餌を運んでいる。そうっと巣箱の蓋を開けて恐る恐る覗いてみると、まだ毛も生えていないピンク色した4,5羽の雛がピーピー鳴いて親を呼んでいる。じれったくなる気持ちを抑えていると20日も過ぎる頃、一羽、また一羽とグレー色をした雛が巣箱から出たり入ったりし始める。一日中見ていても見飽きることがない。
 理屈でもなんでもなく、ひたすら愛らしい生命に魅了される。
 
 こうしてみると、どうしてこれほどまでに生き物が好きなのか自分で考えても良く分からない。特別愛情深い人間などでもないし、もしかすると多分少し正気でないところがあるのかも知れない。
 これでは、まるで甲斐性なしのダメ男で猫にばかりデレデレしている庄造そっくりな自分じゃないかと思った。
 こんな体たらくだから、苛烈を極める弱肉強食の商売の世界では青息吐息になってしまう事態も、容易に救いようがないのかもしれない。

 
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