縄文の犬

 先日、手前どものお客様のKさんが、宮城県塩竈から愛犬アンジーちゃんを連れて訪ねて来られた。
DOG SHIPの須崎くんの生徒さんなのだそうで、スタッフの五味さんと、Kさんのお姉様ご夫妻も一緒にみえられ、ひとしきり四方山話に華が咲いた。

 その数日後、この日の出会いが引き金となって、Kさんに引かれるように急に旅に出てみようと思いたった。
来る日も来る日も事務所の一室に引き篭もって、パソコンとにらめっこしていることにいささか疲れ果てていたこともあり、この年の瀬にスタッフの手前示しが付かない行動に違いない、と逡巡する気持ちもあったのだが、もう、起こってしまった衝動を留めようがなかった。

 新幹線で仙台に行き、東北本線に乗り換え国府多賀城駅に着いたのは、三軒茶屋を午前9時半頃に出て午後12時半であった。
旅とはいえ、たった 3時間で宮城県多賀城市に到着だ。
芭蕉が、奥の細道の旅へ江戸深川を出立したのが元禄2年(1689年)3月27日で、宮城野(仙台)に着いたのが5月4日だといわれていて、そういうのがいわゆる旅なんだろうが、これでは旅でなく、まさしく瞬間移動だ。

 芭蕉は、宮城野(仙台)で画工加右衛門を知り、その世話で宮城野に5日ばかり逗留し、多賀城から塩竃、そして松島、平泉へと旅を進めるのだが、奥州路の中で宮城野の先、岩切から多賀城までの間を「おくの細道」という、と、奥の細道には書かれてある。
「宮城野」の章に続くのが「壷碑」(つぼのいしぶみ)で、碑には、多賀城建立(724年)と改造(762年)の所以が刻まれている。芭蕉は、この碑に出会い、「山は崩れ川は流れて道が変わり、石は埋もれて土に隠れ、木は老い枯れて若木に代わった。時代が移り変わって、その跡の不確かなことばかり多いのに、この壷碑に至っては、疑いようもない千年も昔の記念碑は、いま眼前に古人の心を見る心地がする。これも旅の一徳、存命の悦び・・・・」と涙を落とすばかりに感動した。
しかし、何故か、ここまで感動した「壷碑」でも、かの「松島」でも、芭蕉は一句も残していない。

 ところで、私が多賀城に出掛けたのは、芭蕉の旅情に浸るような余裕があるわけではなく、「東北歴史博物館」にある、完全な形で発掘された縄文犬の墓を視たいと思ったからに他ならない。

 博物館に入ると、途端に犬の鳴き声がした。
博物館で犬を飼っている筈もないとは思ったが、果たして最初の展示室には、竪穴住居が復元され、縄文人の暮らしの様子が人形で表されていた。
家の中では、炊事の様子、外では家長とおぼしき人物が胡坐をかいて、狩の道具か生活用具の手入れをしている様子で、その傍らに、柴犬よりふた周りくらい大きい、つまり縄文犬がいた。先ほどの鳴き声の主は、この人形だった。0412251

 そして、次の展示室に目差す縄文犬の墓が展示されていた。これは復元されたものではなく、気仙沼市田柄貝塚から発掘されたそのものである。
頭部から足の先まで、身体全体が丸く寝ているような姿で丁寧に埋葬されていることが窺い知れる。

 生活を共にしていた家族の一員であり、神霊としての存在でもあったと思われる飼い犬の死を悲しみ、畏れ、これほどまでに優しく、手厚く埋葬したという事実を示すこの縄文犬の墓は、 1万年以上も昔の、人間と犬との深い関わりを如実に物語って余りある。

 
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