犬(猫)がいるから生きられる

過ぎてしまったこと、終わってしまったことについては、それを振り返らない性格なので、昨年、一年間書き続けたこのブログも、およそ200日分くらいあるのだと思うのだが読み返したりはしない。
そんなことをすれば、恥じ入る余り今年は続けられなくなってしまうに違いない。
したがって、一度話したことをまた書いてしまうようなことがあるかも知れないが、そこのところは最初から謝っておかねばならない。

正月の新聞をパラパラ読んでいると、東日本大震災で息子さんと夫を亡くした79歳の女性が、今、14歳になった犬と暮らしていて、生きた証しとして短歌を詠んでおられるという記事に出会った。
心の支えとなった愛犬に関わる短歌2首をご紹介したい。

「愛犬に 亡き子夫を話す時 尾ふりすりよる話わかりて」
「仏前の 朝のおつとめする時は 愛犬の無事も切にお願いす」

犬たちと暮らしている方々には、この短歌に描かれた光景は目に浮かぶであろうし、歌詠みの気持ちにも納得されると思う。

アルベルト・シュバイツァーの言葉がある。

「人生の苦悩からの逃げ道は二つある。音楽と猫だ」

シュバイツァーは相当な猫好きだと言われているが、それは犬と置き換えても同じことで、そのどちらも今や人間にとってますます欠かせない存在になっているのではないだろうか。
私たちは、それだけ悩ましい時代に生きていることになるのだろうが、犬なり猫なりと話をしていれば何とか生き抜けるものだと、自分はそのように思っている。
また、人生の苦悩などというものは、シュバイツァーの時代も今の時代も、もっと言えば有史以前から人間という動物の基本概念なのだから、そこから逃げ出すには人間をやめるより手がないことになる。
手がないことを考えることに意味はない。
最近、それほど人間やっているのも捨てたもんじゃないと思うようになってきた。
音楽があって、犬や猫たちがいるのだから。

 
scroll-to-top