犬や猫を飼うのは趣味と言っていいのかどうか

昨今、科学や医療、また芸術など、様々な分野において旧来の権威が音を立てて崩れ去る様子を見せられて唖然としている。
歌の文句じゃないけれど、どうせ騙されていることは分かっているのだから、せめて騙し続けて欲しかったと思ったりする。

こんな時代には鬱々とした気分にならざるを得ないが、もし、そんな気分を救う手立てがあるとすれば、その一つは宗教であり、もう一つは道楽(趣味)じゃないかと考えている。

宗教と言っても、求道で苦行したりすることでなく、イワシの頭でも恵方巻きでも何でも良いし、俗臭ふんぷんとする現世利益であろうが何でもいいのであって、とにかく信じる者は救われるのだ。
何故救われるのかと言えば、すべての宗教が究極的には苦,罪からの救済を目的としているからである。つまりそれは楽観主義(オプティミズム)であり、そうであるからこそ、良し悪しは別として宗教の持つ一面であることに変わりはない。

そして、道楽(趣味)も身心を救う有効な手立てだろうと思う。
何でもいいから好きなものに夢中になり、周りから少しおかしいんじゃないか、と思われるくらい熱中する対象があれば、これまた救われることになるのではないか。
犬や猫を飼うことも道楽というまでに値するほど熱中するならば、それは明らかに救いをもたらすに違いない。

犬や猫を飼う、あるいは暮らすことを、道楽(趣味)などとはとんでもないとか、宗教を楽観主義などと決めつけるのは、宗教を冒涜するものだなどと目くじらを立てるようだと、そのような人は生涯救いようのないあんにゃもんにゃだと思う。
あんにゃもんにゃ、ってどういう意味?
それは、私の道楽の落語、古今亭志ん生の「火焔太鼓」の一説なのだが、そんな寄席道楽も身を救けるもので、粋という日本特有の美学を少しは身に付けることにも繋がった。

 
scroll-to-top