無感動の危機

これからの日本が、日本人が、無感動になることに危機感を持つと、司馬遼太郎が言ったという。
20年前の話だ。
確かに、確実に、芸術分野も低迷していることを感じるし俗化していることも事実だ。
インターネットや新聞、TVなどのメディアも、見るべきものも少なくなってきたし、この低俗化は一体何がもたらした状況なのだろうか。

最近、私はTVのニュースもなるべく見ないようにしている。
否応無く憂鬱になってしまうからで、こんなに気分を悪くしてまで見ていることもないだろうと思っている。

先日、野坂昭如さんが亡くなった。
いろんなことを思い出すが、深沢一郎のラブミー農場の近くで無農薬の米作りに挑んだときも散々な結末を迎え、田中角栄と選挙で戦った結果も散々だった。

そういう夢追い人が、一昔前は結構いたもので、例えば、今に続いている朝まで生テレビという番組も、これほどつまらなく、そしてひどい出演者ではなく、野坂を始め、大島渚、西部邁、小田実など、ことの是非はともかく、それぞれの論客が口角泡を飛ばすが如く激論を交わしていた。
この収録中、ずいぶんと酒が回っていたこともあった。

持論をもって激情に走るような、命懸けの純粋、真剣、真面目さをもった傑物が本当に少なくなった。面白くもなんとも無い。

話は変わるが、今、私がTVで欠かさず見ているのが土曜日の夜、9時から1時間、BS日テレで放映している「小さな村の物語 イタリア」だ。
伝統、気候風土に根付いた村人の暮らしのドキュメントだが、かつては日本でもこのような美しい光景が存在したような記憶がある。
明るく素朴な日々の生活。その周りには必ずと言って良いほど犬もいて猫もいる。
この光景が、演出されたものなのか、まんまこの通りなのか、そんなことを考える必要は無い。
もし、この拙文を読んで興味と、ちょっとした暇がある方は一度ぜひ見ていただきたい。

今の世の中から感動を得られるものが何もない訳ではない。
例えば犬や猫と暮らしている人々の多くは、少なからず彼らの存在に感情を揺さぶられている。
しかしそれだけではちょっと寂しい気もする。
少しささくれ立った感のある人間関係を、もう少し寛容な精神、豊かな感性、ユーモアの精神で付き合う社会になったらこれほど楽しいことはないだろうと願っている。
そういう意味では、私自身、多くの素敵な人たちに囲まれた、この100CLUBを終生の仕事としたことを幸せに感じている。

 
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