犬や猫たちは美しい

先日、さる方から、見込みの窓に瓢軽た犬の絵が描かれている古伊万里の皿を頂いた。
その皿を、仕事机に置いて眺めているうち、昔、韓国へ足しげく通って、李朝の民画を買い集めていた頃のことを思い出した。
李朝の民画というのは、日本でいうと、お伊勢参りのみやげ物であった大津絵に近いもので、それぞれに共通しているのは、描いた絵師の名前がなく、また、いくつかの限られたテーマが繰り返し描かれた絵である、というところだ。

080827a1 買い集めた李朝の民画で展覧会を開いた際、民画が好きだという原爆の図の画家、丸木俊さん(コラム「危険な公園の散歩」)が画廊に来て、
「なかなかこういう訳にはいかないんだよねぇ」
と、私に向かって感慨深く言った言葉が忘れられない。

丸木俊さんは、その素描力が特に際立って優れた画家である。その丸木さんが「こういう訳にはいかない・・・」と言う。
丸木位里、俊さん夫妻は、自身の被爆体験によって、大作「原爆の図」を共作した。
その作品には、核廃絶、恒久平和への祈りが画き込まれ、ノーベル平和賞の候補 にもなった。そこには丸木さんの思想、主張が明確に表現されているのだから、その作品には丸木さんのサインがなくてはならないものと考えられる。
しかし、絵画表現には、画家の意図に係らず、意図しないものまでもが否応なく映し出されてしまう。
その、無自覚の意識も含め自意識の全て、そして思想や教養、性の善悪、美醜までもが、覆いがたく絵に表れる。
丸木さんはこのことが良く分かっている画家なのであり、それが分かっているところが丸木さんのすごいところなのだ。
絵に限らず、あらゆる分野の自己表現において、人間の為すことは取り繕いようもなく自己を晒しまくることになる。
表現とはそういうものだ。
ところが、李朝の民画には、その、無名性と反復の技から、自ずと自意識のかけらもない絵のみが生まれる。
丸木さんも私も、その純朴な美しさに魅入られていた。

かくいう私の、このコラムにしても、やむなく毎月、拙い文章を書いているのだが、取るに足らない私のような者にしても、その全てがあからさまになっている訳で、それでもいい、という決心がなければ一行の文章も書きようがない。つまり、どうとでも思ってください、このまんまの私でしかありません、と、開き直っている訳だ。
何と恥ずかしいことだろうか。いつもそう思っている。
ところが、そんな風に考えるのは、私のような老人の感覚のようで、昨今では、むしろ競って自己を顕示することが風潮であるようだ。

080827c1080827b1 漂白の旅を続けながら、一宿一飯の謝礼によって、家内の安寧を願い、あるいは子弟の健やかな成長を願い、自らの名を残すことなくひたすら絵を描き続けた絵師たちの、驚くほど達者だったり稚拙だったりする、その絵は、功利功名から発現する嫌味など一切感じられない、純朴な美に溢れている。
そのような美しさを、古伊万里の皿の犬の絵に感じ、その原点である朝鮮の李朝の民画に感じるのだが、私は、そこにつながる美を、犬や猫たちにも感じている。

 
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