戻るつもりもなかった、生まれ育った町に戻ってみたら、思い出したくもない過去に否応なく向き合わざるを得ないことになってしまった。
どうして、こんな変な男になってしまったのだろうか、自分自身、どうにもわからない謎については、どうせ可笑しな遺伝子が伝わってきたのだろうと、これまで、そんな風にしか考えていなかった。
引越し荷物の、片付けても、片付けても一向に切がつかない、そんな中から、私が羽生の町で始めた画商時代の展覧会の案内状が出てきた。私が26歳。50年前の話である
「小薬流水展」
この展覧会が私の最初の仕事であった。何故そのようなことになったのか、ということには理由がある。小薬流水さんは私の小学時代の書道の先生だった。
そこで習った書を学校に持っていくと、いつも「何だ!この字は~」と怒鳴られた。
その頃の思い出話になる。
流水さんは書家であり、俳人で、画家でもあるが、その大友人が棟方志功だ。あるとき私の家には棟方の墨絵が描かれた色紙が20枚位あって、それを友達や親戚に販売していた。
そんなことしていた理由を、展覧会の会場に来ていた流水さんから聞いて初めて知る事になった。棟方の版画や絵が売れなかった時代、流水さんの家に遊びに来ていた棟方に色紙を書かせ、町の好事家に頒布していたのであった。私の親父も好事家の一人で流水さんの友人であった。
私が流水さんの所で書を習っていたある時、棟方が流水さんの家に遊びに来た。これから映画を見に行くから付いておいでというので、ノコノコ後から着いていった。
その映画館での光景は、今以て鮮明に思い出す。
二人の変人大人が、映画館の最前列に陣取り、「流水さ~ん!すごいねぇ~」
肩を叩き合ったり、大声で笑ったり、拍手を送ったり。とにかく騒々しさが半端じゃない。
とても一緒には居られず途中で逃げ出す始末だったが、その光景を忘れることが出来ない。
流水さんの飯の種は、パンツのメーカーで、奥方はミシンの名人であった。その最初の頃の商品名は「韋駄天パンツ」と言い、そのネーミングもロゴも棟方志功だった。
流水さん、そして棟方志功という異端の大人物との衝撃的出会いが、その後の私の精神形成に少なからず影響しているような気がする。