時代によって変わる犬や猫と暮らす意味

大震災から間もなく3年ということで、TV、新聞などメディアでは関連の報道が相次いでいる。
その後2度ほど被災地を訪れたことがあるが、その傷跡は、物的被害もさることながら人々の心にも深い痛みを刻み込んでしまった。
この事態に対し、ただただ立ちすくむだけで、何をか語るべき言葉も持たない無力さに、むしろ今頃になって苛まれていることに気付き、改めて事の重大さに驚愕するばかりだ。

犬や猫たちとの付き合いは60年以上にも上るが、その間、その意味合いが大きく変わってきている。
子供のころの犬の存在は、おおかた番犬として飼われていたのではないかと思われる。番犬が必要とされるほど、敗戦後間もないころの日本では泥棒が多かった。
それでも、犬の特筆に魅かれる好事家も少なからずいて、例えば川端康成などは大の愛犬家として、番犬としてではなく犬を飼っていたのだが、間違っても犬を座敷にあげることはなかったと言われている。

その後、日本も豊かになって、犬をペットとして飼う人々が増え、ペットブームと言われるほどの現象が起きて、外飼いから部屋飼いへと犬の立場が昇格した。
そして最近では、純血種を求めることよりもミックス犬が良いというトレンドへと変わり、ペットショップでから犬を買うのではなく、殺処分ゼロ運動の影響なのか保護犬を飼うことが美徳とされるような時代になってきた。

そして最近では、犬や猫たちが暮らしの中にいなければ、人間の健全な精神生活が成り立ちがたいという様相を呈しているようにも感じる。
私の勝手な推測を述べるならば、東北大震災の傷跡は、被災者の方々のみではなく、日本人全体に、何かやりきれない陰を落すことになったのではないかと感じるところがある。
犬や猫たちは自由勝手に存在しているのではなく、あくまでも人間と深く関わることなのだから、時代背景の変化が映し出されることになるのだろう。

 
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