回想の記 その4

 四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。

1909年。田山花袋の「田舎教師」の書き出しだが、その羽生が私の生まれ故郷だ。
羽生には敗戦後の5~6年間くらい、この青縞(青縞というのは藍染のことで羽生は日本でも有数の足袋の産地だった)の市が4の日、つまり4,14、24日と、月3回の市がたっていて、町中にテキ屋が溢れにぎわっていた。

今回は私のペットライフについて回想してみようと思うのだが、そのスタートは市のテキ屋から買った二十日鼠だったもので、こんな書き出しになってしまった。
小学生の低学年の頃の私のペットは二十日鼠に始まり、ひよこ、そしてウサギと続いた。

二十日鼠は増えすぎて手に負えなくなり、ひよこは1~2日で死んでしまい、それでも懲りずに何回も買い続けた。
うさぎは、その餌を採りに鎌を持って田畑や利根川の土手に出掛け、ついでに小川での魚採り、イナゴ採りに夢中になった。
そんな時も相棒はスピッツで、学校以外ではいつも一緒だったが、当時は犬を部屋にあげることは無く、玄関の土間に親父が作った犬小屋に置いていた。

まだ小鳥屋やペットショップが無かった頃は、雀や雲雀の巣を探し回っていた頃があった。雲雀は麦畑や河原に巣を作るのだが容易に見つけることが出来ない。雲雀が空から降り立ったところに巣があるのか、飛び立ったところに巣があるのか、どちらにしても簡単には見付ける事が出来ない。

雀の巣は簡単で、屋根瓦の隙間のようなところに巣を作るので巣立ちの頃を見計らって、よその家の屋根によじ登ってそっと瓦を外し、雛を巣ごとポケットに詰め込んで逃げ帰る。その巣のぬくもりは何ともワクワク感に溢れるものがあった。
あるとき、家に怒鳴り込んできた人がいた。雀の巣を狙って屋根に登った、その家の人だった。
「お宅のせがれが屋根瓦を外して雨漏りするようになった」というのだ。慌てていて屋根瓦を元に戻さなかったのだ。

お寺の裏山にものすごく高い木がそびえていて、そのてっぺん近くに「ゴイサギ」が巣を作っていて、親鳥が餌を運んでいる様子が見て取れた。
「ゴイサギ」という鳥は、成鳥になると背は瑠璃色に腹は白くなる。実にきれいな鳥なのだ。この雛がどうしても欲しくてたまらなくなったのだが、何としても高所恐怖症なもので、とんでもなく高い木に登るわけにはいかない。
そこで、悪ガキ仲間の木登り名人に懇願し、頃合を見計らって木に登ってもらい2匹の雛を取った。

2~3日して、家に寺の和尚さんが来た。
寺もそうだったらしいのだが、近所の人たちが「ゴイサギ」の鳴き声がうるさくてたまらないという騒ぎになっていて、どうもその原因は悪ガキどもが雛をとったことで、親鳥が泣き叫んでいる。
悪ガキといえば折り紙つきの自分のことだろうということで和尚さんが文句を言いに来たという訳だ。

両親ともが本当に申し訳ないと、平身低頭していたが、そのことで怒られた記憶は無く、1年くらいの間、「ゴイサギ」を飼っていた。
ザリガニ、ドジョウ、カエルなどが餌だったが、大きくなってからは長い紐を首につけて、小川や田んぼに連れて行くと自分で餌を取るようになった。
まるで鵜飼のような体だったが今ではこんなことは許されるものではないだろうと思う。

鶏になると可愛いとはとても思えないが、ひよこの可愛さ、愛らしさはたまらないものがあって、そのつながりでカナリア、白文鳥、コキンチョウ・・・・と、飼鳥狂いは50歳くらいまで続いた。野鳥はウグイス・メジロ・ミソサザイ・コマドリ・・・と数え上げればきりが無い。
ただし、ひよこがスタートだったので、インコ類の小鳥はくちばしの形が好きになれず飼ったことがない。いまの総理大臣の爺さんになる岸総理は、アメリカでのあだ名がバード(鳥)だったことを思い出した。

この100CLUBを始めて気が付いたのだが、鳥が嫌いだという人が本当に多い。
どうしてこんなにも愛くるしい小鳥が嫌いなのか良く分からないのだが、小鳥を飼ったら店を止めさせてもらいます、というスタッフまでいる。
そう言えば、つい最近まで用賀にあった小鳥屋さんが閉店してしまった。残念だ。

こんなことばかり書いていていいのかどうか、少し頭の平衡感覚がおかしくなっているのじゃないかと感じるのだが、自分が如何に動物狂いだったのか、自分自身でもちゃんと知っておくべきなので書き続けていこうと思っている。

 
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