遊びをせんとや生まれけむ

この一か月くらい、小鳥と金魚が欲しくてたまらない。
漱石の「文鳥」や内田百閒の「阿呆の鳥飼」を読んでみて、もはや病膏肓に入ってしまった有様だ。

そんな事ならすぐにでも始めたらいいじゃないかと、そういう人もいるのだが、私の過去の体験からすると、それほど簡単に始められるものではないことを身に染みて知っているため、未だ悶々として、のた打ち回るほど苦しんでいる状態なのだ。

そんな大げさなこと、と言われるかも知れないのだが、金魚にしても小鳥にしても、宝石のように美しい生命に惹かれて止まないのだが、余りにも幼気で、細心の世話をし続けなければむざむざ殺してしまうことになりかねないのだから、迂闊に手を出せないのだ。

どうしてこれほどまでに、とりわけ生き物に夢中になってしまうのか、自分でもよく分からない。
小鳥と金魚だけではない、むろん今でも犬、猫が欲しくてたまらないのだが、最早、自分自身が犬、猫のように面倒をみてもらわねばならないような始末である以上、それは無理というものなのだが、せめて小鳥か金魚ならば何とか自分で世話ができるのではないかと考えているのだ。

中世、後白河法皇が狂って(熱中して)「梁塵秘抄」を編んだ。今でいえば流行歌ということになるのだろうか。
その中によく知られた唄がある。

「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ」

NHKの大河ドラマ平清盛のテーマであったというこの唄は、とても意味深いものがあって、常々私の愛唱歌でもあるのだが、さすがに節はつけない。
しかしこの唄の意味は、平清盛ほどの修羅場を生きた人間にしか分からない心境なのではないかとも思うところがある。

この前のブログにも道楽のことを書いたが、道楽、遊び心、喜びとか、そういう心境に到達することこそが、人の生きている意味、目的なんじゃないか。そう思う。
だから小鳥か金魚を何としても飼って、飼い果せてみようと、今日決断した。