肉食動物は神の使い

070928_hushimi31070928_hushimi11 どうしても行って見なければならない、止むに止まらない思いに駆り立てられ、京都の伏見に出掛けた。伏見といえば、稲荷信仰の総本山、伏見稲荷大社がある。
一人での行動には自信のない私に、今回、幸いにもカメラマンのKさんが付き合ってくれたことで、私にとって絶好の機会の実行が可能となり、伏見詣での望みが叶うことになったのだ。

京都駅近くのホテルを出て車に乗り、10分位で伏見稲荷大社に着いた。
楼門、本殿を過ぎると、京都名所の一景である千本鳥居の二つの入り口が現れる。Kさんが左、私は右側を選んで歩を進めていった。
日をさえぎるほど隙間なく立て込められた鳥居の回廊を抜けると奥社奉拝所に着く。
茶店で一服してあたりの様子を見ていると、ほとんどの人達はここまで来て引き返してしまうようだったが、私の場合、この先の稲荷山の全山を巡ってみなければここに来た意味がない。カメラマンのKさんは相当な重量の機材を持っているし、私にしても、階段状になっているとはいえ4kmもある山道を果たして歩き通せるのかどうか全く自信がない。
そこで、茶店の方にお願いし、カメラ以外の荷物を預ってもらい、とに角、行ける所まで行ってみようという事になった。

稲荷山をすべて巡ることを「お山する」と言うそうだ。この話は後に伏見人形の丹嘉の主人に聞いた 。
今では、余程信仰心の厚い人でないと「お山する」事はないそうだが、そのような人達にも絶対負けないであろうと思われるほどの難行苦行の末、5時間を掛け、ついに稲荷山を踏破した。

稲荷山の辻々、そして峯々の随所には、一箇所に数百もの神蹟(祠・塚)が折り重なるように集積している。
何百年を経ているに違いないと思われる大小の祠石が、隙間なく立て込まれた千本鳥居のように押し合いへし合い集められている。
その各祠には、もれなく神の使徒、眷族(けんぞく)であるキツネの石造が、一方は宝珠を、一方は蔵の鍵(巻物という説もある)をくわえ鎮座している。
「このキツネは犬みたいですねぇ」
と、Kさんに言ったが、旧い時代の石造は、キツネともイヌともつかない姿であった。それから進んで行くと、何と、キツネと一緒に狛犬もいるではないか。

070928_hushimi51 稲荷信仰といえばその眷族はキツネのはずだが、伏見稲荷大社の創祀には、例によってオオカミの神話が語られていて、そうであれば三峰神社で、オオカミが眷族となった神話とさして変わりない。

そもそも日本の宗教は、日本古来の土着信仰に加えて、道教、仏教、密教、陰陽道、修験道などの宗教が伝来し、その時代や地方の為政者、権力者によって様々な宗教様式に混交していく。
したがって、三峰神社も伏見稲荷大社も神仏習合で、明治の廃仏毀釈まで伏見稲荷大社は愛染寺という寺社でもあった。
このような宗教史については宗教学者や民俗学者に任せておけばいい話であるが、因みに民俗学の柳田国男にも稲荷信仰についての記述はあるが、結論としてよく分からないと書いている。

動物学における種の分類では、キツネは、ネコ目イヌ科キツネであり、イヌもオオカミも同様である。今、私たちが飼養している犬たちは、人間が作り出した種でイエイヌといわれる。
そのような学問が成立しているはずもない大昔。農耕民族にとっておそれを抱く対象は自然そのものである。そしてなお、五穀豊穣を願う農耕民にとって、害獣となるのは草食動物の存在であり、その害獣を駆逐する肉食動物であるオオカミを、神の使徒としてあがめる対象とすることに無理はない。
その肉食動物が、ジャッカルでもオオカミでも、またキツネであろうと、説話の作り手の都合でさしたる問題ではなかったのではないだろうか。
伏見稲荷大社は、朝鮮半島からの渡来人である秦氏にも由来するところから、中国の狛犬との腑分けをしたのかも知れない。

このたび「お山する」をしたことで、私の素朴な疑問については解消した。狛犬もキツネも根は一緒だということで勝手に納得することができたのだが、新たな課題が生じてしまった。
それは、人間の「祈り」という行為の意味についてである。
というのも、行く道では、美しい朱塗りの鳥居の回廊を通るのだが、帰路では、その鳥居の裏側に、鳥居を奉納し商売繁盛を祈願したおびただしい数の企業名が厭でも目に入る。
それを見せられてしまったことで、現世利益のあさましいほどの醜さを感じてしまったのだ。

070928_hushimi41 商売繁盛、合格祈願、交通安全等々、それも「祈り」の内に入るのかも知れないが、稲荷山の山中にある神蹟で感じた、呻くがごとき「祈り」の声が、何百年も経て、なお、今もって聞こえてくるような空気感とは全く違う。
この落差の理由は一体何なのだろうか。
この課題の考察については、いずれコラムに書いてみるつもりだ。

帰路、裏参道に連なる土産物の店には、何故かキツネよりも招き猫が目立って並んでいた。
荷物を預けた茶店で聞いたおいしい食事処で食事中、今では一軒だけしか残っていない伏見人形の丹嘉に寄ってみようと、と思いついた。
100CLUBも、随分頑張っているのだが商売繁盛には程遠い。伏見人形の招き猫でもショップに飾ってみようかとも思ったが、先ほど体験した現世利益の醜さが頭にこびりついていてそれは取り止めた。
あれこれ品定めしているうち、ショーウィンドに飾ってある「睦犬」というタイトルの人形が気に入って、非売品であることを承知で、これを下さい、と店の主人に言うと070928_hushimidog1

「それはお譲りできません。干支の動物については、その年に全て売れてしまうので、犬の人形でしたら10年待ってください。」
と言われた。
「そんなに待っていたら、私、多分死んじゃってますよ。何とかこれを譲って頂けませんか。」
と、小一時間、まるで玩具をねだる駄々っ子のようになって口説き続けた結果、しぶしぶながらも了解を取り付けることに成功した。
 こんなことしている自分も、祈願の裏側にある欲望を露にしている、とんでもない俗物に違いない。

そんなこんなで、今、100CLUBのショップには、神のお使いである伏見人形の「睦犬」と「眠り猫」が鎮座しており、私は毎朝手を合わしているが、事務所の椅子に座ると、人形ではない生の眷族たちが、070928_hushimicat1私をうるさくも歓迎してくれる。

 
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