犬や猫たちのコモンセンス

この数日、「コモンセンス」という言葉について繰り返し煩悶している。

日本語に置き換えるべきなのだろうが適当な言葉が見付からないため、「コモンセンス」と言っているのだが、正確にとらえているのかどうかも分からない。


何が言いたいのかというと、いわば人間が社会生活を営む上で、常識、価値観、行動の規範などが、最低限共有されていなければ、そこから先の話はいっこうに進まないし、いくら時間をかけても全く意味をなさない。


物事の本題については様々な考え方があることは当然なのだが、それはあくまでも「コモンセンス」を共有していることが大前提でなければ大人の社会関係は成り立たないと思う。

要するに大人になりきっていない人と何かの話を進めていこうとするとき、「コモンセンス」が共有されていないと、小学生の子供と話しているのとなんら変わらないことになるのだから、精神が消耗すること甚だしい。


そんな心境にあるこの頃、ふと犬や猫たちの世界を考えていた。

そして、東京農大の財団「進化生物学研究所」のある学者が、サルなど、群れの動物たちは、群れ、いわば社会を円滑に運営していく方法として、個々の距離感を実に巧妙にとっている、と言っていたことを思い出した。

人間社会では、とりわけ都会では、例えば通勤の満員電車ように人間がこれでもかと車輛に詰め込まれている様子など、動物なら発狂してしまうだろうとも言っていた。

実は人間もすでに発狂してしまっているのかも知れない。


そんなことを考えながら、我がスタッフ犬の「珀」や「雪」、そして5頭の犬たちがいた頃のことを観察していると、そこには犬社会の「コモンセンス」がきちんと機能していて、実に絶妙な小社会を構成しているように感じられる。

人間が犬たちに見習うべきことは少なくない。

 
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