犬が、ただならない存在になってきた

犬・猫の食餌については革新から確信に至って、あとは如何に品質の向上を目指すか、そして安定供給を維持できるかという段階になってきていると思っている。

そうなると、今後のライフワークとして旧来の課題であった「人間はどうして犬を飼うのか」ということについての考察を進め、その過程と結論を自分なりに取りまとめておこうと考えた。
自分の能力ではとても叶わない課題であることは承知のうえで、このようなインターネットで、ほぼ毎日のように恥をさらしているのだから、恥のかきついでに躊躇なく取り組んでみようと思っている。

これまで読み漁ってきた犬がらみの書物は欧米の著者によるものが大半だった。
国内の著作物に関しては、平岩米吉以外に思い浮かばないほど少ないのだが、それは、犬の事を文学なり科学なりでまともに捉える者がほとんどおらず、断片的な扱いしかされてこなかったせいだと思う。
平岩米吉は歌人でありながら犬キチで、犬のことばかりに関わる本を多数出版しているのだが、そのことで嘲笑を受けていたところもあり、動物文学というジャンルがあってもいいのではないかと主張し動物文学協会なる団体を立ち上げたりもしたのだが、大きな実績を残したとは言えない。

いま日本では、犬の存在の意味が一昔前とは大きく変化している。
すでに犬の存在は、人間の存在そのものにも重大な示唆を与えているのではないだろうか。
この点については、英、仏、独において、はるかに先進的に、人間にとって犬とはどのような存在なのか深い思索がなされている。
当然そのような思索には、日本人にありがちな情緒的に犬の存在を捉えるのではなく、哲学、文学として深い洞察力をもって語られている。
これからは、この場にそれらの言葉を紹介し、その含むところを学んでいこうと考えている。

 
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