犬か猫、そして酒

「犬2匹も飼うとは、あくまでも従わせたいんだ!」と、猫飼い派の友人に言われた、という話を小耳にはさんだ。
果たして愛犬家の方々の中で、犬を従わせて悦に入っている人はいるのだろうか。
少なくとも私自身は、犬に従ってしまっているような有り様なのだから、とても従わせているというような感覚はない。

確かに犬と猫ではその習性から、人へのかかわり方が違うことは事実で、それは犬も猫も同時に多数飼っていた経験から良く分かっている。
犬は飼い主の命令をよく聞くが、猫に命令をしても知らんぷりでGoing My Wayなのだから、そこがいいところなのだと感じている猫派の方からみると、いちいち犬に命令をしたり、その飼い主にうるさいほど付きまとっている犬の姿が、いかにも犬を従わせることでいい気分になっているのではないかと思うのかも知れない。
私は犬派でもないし猫派でもないから、猫派の方を批判するつもりは毛頭ないのだが、犬を従わせて悦に入っている犬の飼い主さんは余りいないのではないかと思っている。

犬も猫も飼ってみれば、何れも家族同然であって、その存在には大いに救われるところがある。
人は人を愛することで事が足りるのなら何の苦労もないのだが、人という動物がそのような一筋縄ではいかないところがあって、そのことは紀元前に生まれた古代ギリシャ神話以来、現代にいたるまで連綿と続く愛憎、怨恨、戦争といった悲劇は、物語の中の話ではなく現実そのものなのだ。
そういう、どうしようもない人間だから、その後キリスト教であったり仏教であったり、倫理、道徳を説く宗教が生まれたのだが、それでも人間は救われることはなかった。

ときどき、犬か猫に生まれた方が良かったと思うことがある。
お前はいいよなぁーと、実際語りかけることすらある。
たったそれだけのことであっても、一緒に暮らすことの意味は大きいのではないか。
このご時世、犬か猫とでも暮らしていなければとてもやってはいられない。
そこにもう一つ加えるとすれば、
「白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」
という牧水の心もちで、
「かんがえて 飲みはじめたる一合の 二合の酒の夏のゆふぐれ」
という具合に、今夜も一献傾けましょう。

 
scroll-to-top