気まぐれな話

 中島みゆきの「地上の星」という唄が大ヒットしています。
そのことで思い付いて「さらば気まぐれ美術館」という本を取り出して、久し振りに読んでみました。
芸術新潮の「気まぐれ美術館」という随筆の連載が単行本になったものの一冊です。
著者は、以前私が美術商の端くれであった頃、師と仰いでいた洲之内徹という人です。
この中の「朝顔は悲しからずや」のところで、その頃、中島みゆきに耽溺していた洲之内さんは「あばよ」とか「裸足で走れ」などの唄の歌詞を丸写しし、「あなた昔、だれかに話したでしょう」というこの詞は凄い!などと絶賛しているのです。
この章のテーマは、書き出しがゴッホの「タンギー爺さん」の絵にある朝顔の話と、最後が小野木学さんの絵の話なのですが、文中9割は中島みゆきに夢中になった74才の洲之内さんのあられもない様相があからさまに書かれています。
洲之内さんに中島みゆきを教えたのは、「軍艦島」を撮った雑賀雄二さんでした。この結果、新潮社は歌詞の丸写しに対し、数万円の著作料を支払う破目になったという、20数年前のエピソードです。

 ところで、この「気まぐれ美術館」の表紙は、松田正平さんの描いた何の種類か解りませんが、犬の絵です。
そして「モダンジャズと犬」という章で、湯布院の画家、高見幹司さんが飼っている「さぶ」という犬のことを書いています。
ここに洲之内さんが高見さんから聞いたという話しを丸写しし、ご紹介します。


  • 山で暮らす人の家には、犬は必ずいる。
  • 犬は、ある時は食糧であり、ある時は友人であり、ある時は猟のための不可欠な道具である(食糧には私はちょっとびっくりしたが、高見さんはこの条件を最初に挙げた)
  • 高見さんの家も代々、犬とは切っても切れない関係があった。
  • 高見さんが人一倍犬に愛着があるのは、そういう祖先の血が、高見さんの中を流れているのかも知れない。
  • どこかで拾ってきた犬でも、高見さんが3年位育てると自分の犬、つまり自分の家のタイプの犬になる。
  • そうやって、馴染んで馴染んで馴染んで兄弟みたいな犬が何頭に一頭かできるが、そういう犬は不思議に死ぬ時は山へ入って死ぬそうです。
  • 高見さんの飼った犬であれば、いい犬だと言われるような犬はみんなそうだった。
  • それを高見さんは、『山へ帰る』という。
    犬は本性に帰るのだろうか、それとも獲物を追って駆け続けた山中を自分の死場所と思うのであろうか。

 絵というものを通し、人間とは何か、というテーマをその一生をかけて追い求めた州之内さんの眼が、人間と犬との関わりに眼を向けた瞬間でした。

 
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