回想の記

昨年は、戦後70年ということで、さまざまな記念行事やら戦後を回帰する出版物、TV番組など目に付いたが、余り過ぎ去ったことを振り返らない性格もあって、取り立てて興味を持たなかった。
ところが、12月に「珀」を亡くしてから、「珀」の仔犬の頃からの10数年に思いを巡らしているうちに、自分の70年について際限も無く思いが募ってきて、それ以来不眠症がぶり返してしまった。

ほとんど破茶滅茶といっていいほど生き恥をかきまくった人生だったし、それは昔話にとどまらず今もって続いているので、今更気取ってみたところで仕方ない。
そこで、どうせならここで思い切り吐き出してしまった方が不眠症も治るかもしれないと考えた。

そういう目的なので、お読みになった方には大変失礼な話しになるかもしれないし、何のためにもならないことになるだろうと推測する。ただし余り重い話を書くと辛くもなるので、このたび思い出した自分の趣味の話しに留めることにする。
ただし趣味とはいっても、その趣味の大半はその後、この歳になるまでほぼ仕事に直結している。
今の100CLUBにしても趣味の延長線上に存在するといって間違いではない。

小学生の頃、戦後7~8年には、町に一つしかなかった映画館に毎週のように通い詰めていた。
相棒だったスピッツも連れて行きたかったので、映画館の親父さんに何回も頼み込んでみたがどうしても犬は駄目だよ!と断られた。
嵐寛の鞍馬天狗、片岡千恵蔵の「七つの顔を持つ男 多羅尾伴内」、市川右太衛門(北大路欣也の父)の旗本退屈男。とにかく、かけ物が変わるたびに映画を観続けた。

中学に入ると、もう一つの映画館が出来た。
それは洋画専門館で、最初に見た映画は「遠い太鼓」という西部劇で、ゲーリー・クーパーが主演だった。「遠い太鼓」ってよく意味が分からなかった変なタイトルだなぁとは思っていたが、後に原題の「Distant Drums」というのだから「遠くから聞こえるインディアンの太鼓の音」ということだと思う。
この洋画館の映写技師の息子が転校してきて同級生となり、その住まいが映画館だったため、日を空けず遊びにいってそのたびに映画を観ていた。
この頃は映画に浸った毎日だったが、「昼下がりの情事」も情事をジョージだとばかり思っていた年頃だった。

この頃、11歳で親父が逝ってしまい、自分が寂しいだろうと思ったのかもしれないのだがテレビを買ってくれた。その日、家では赤飯まで炊いてお祭り気分だったが、その日も自分は映画館にいた。
「ALL WAYS 三丁目の夕日」という映画は全くこの時代を背景に話が展開する。

叔母が麻布の仙台坂上で床屋をやっていて、夏休み、春休みにはほとんど麻布で遊んでいた。従って東京タワーが徐々に立ち上がっていく様をいつも眺めてはいた。
よく麻布で遊んだ一番の目的は、麻布十番にあった寄席だった。
客席は椅子ではなく桟敷で、空いているときなど桟敷を走り回って、確かタバコの灰皿にけつまずいて大きな音を立ててしまった。
その時の演者が「柳亭痴楽」という林家三平の元祖のような爆笑王で、話の途中だったので怒鳴られるのではないかと首をすくめていたら「痴楽」が「元気が一番だよっ!!」と言ってくれてホッとした。

このような話を今日から4~5回にわたって書いていこうと考えている。

 
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