回想の記 その3

Aさんに連れられて初めてジャズのライブを聴いたのは高校1年の夏だった。
大手町のサンケイホールでの「アートブレーキーとジャズメッセンジャーズ」の公演だった。
この衝撃的な体験は、アメリカの音楽というより、その源流にあるアフリカの魂まで一挙に体感するようなメッセージとして受け止めることになった。
それは、自身の魂の根底をも激しく揺り動かされる感まであった。

その後、ジャズのライブは学校を休んでまで、もれなく聴き続けた。
セロニアス・モンク、キャノンボール・アダレイ、ソニー・ロリンズ、マイルス・ディビス・・・・・そしてジョン・コルトレーン。
ジャズに病み付きになって今に至っている。

ここではジャズのうんちくを語るつもりは無い。
それよりも、ジャズを通じての人との出会いについての話を書きとめておきたい。

ある日Aさんから、ホットクラブの寄り合いがあるので一緒に行かないか、という誘いがあった。
ホットクラブというのは、ジャズの愛好家の集まりで、銀座4丁目の交差点に近いビルの一室で、毎月集まりがあるのだという。
断る理由など無いので、一緒に付いて行く事になった。

部屋に入ると10人位の人たちがいて、それぞれの人たちがAさんに、「いらっしゃい」「よく来たね」と声をかけて、Aさんも「やぁ、やぁしばらくです」と相槌をうっていたが、その隣に、制服こそ着てはいなかったが坊主頭の子供がいることには気にもかけられていない様子だった。

しばらくして、そこに集まっていた人たちは、他の人たちから先生と呼ばれていた油井正一さんを中心として、岩浪正三、大和明、いそのてるおさんなど、ジャズの専門雑誌スイングジャーナルの執筆者たちだったことが分かった。
確か、その時、若手だった大和明さんが、新たに入手したというジャズのテープを紹介し、それぞれがあれこれと評論を加えていた。

その会合が終わった後、それが恒例だったようで、一杯やろうということになって、行き付けだったらしい神田にある居酒屋天狗に移動した。
私より12歳も年上のAさんは酒を飲まない人だったが、高校生の坊主頭の私に、ビール飲みなさいよっ!と勧められ、余りの名の知れた人たちの集まりにすっかりのぼせ上がっていた私は、断るのもはばかれたもので、勧められるままに生ビールを5杯くらい開けてしまった。

そこでの話題で、誰が言ったのか忘れてしまったが一つだけ忘れられない話がある。
「マイルスのミュート(トランペットに先に取り付ける弱音器)は、コンドームをつけてセックスするような感じだなぁ」と、当代一のトランペッターといわれていたマイルス・ディビスにけちをつけたわけで、こんな話はスイングジャーナルには書けないだろうなぁ、と思った。
その日以来、ジャズに溺れ、酒にも溺れることになる、デビューとなったのだ。

日本のジャズ評論のレベルは、このホットクラブの面々を中心として、とりわけ第一人者である油井正一の著書「ジャズの歴史物語」は、本家のアメリカのジャズ評論を凌駕するほどの高みに達しているものだ。
また、ラジオからも「アスペクト・イン・ジャズ」、「リズム・アワー」など、油井正一の名調子によって多くのジャズが紹介された。

また、ジャズのライブの司会を務め、自由が丘のジャズクラブ、「ファイブ・スポット」のオーナーでもあった、いそのてるおさんとはAさんを含めての長い付き合いになった。そのおかげで、いそのさんと親友関係にあったオスカー・ピーターソンが「ファイブ・スポット」に遊びに来た時、その隣に座って、馬鹿テクとまで言われた超絶テクニックのピアノ演奏を目前にして聴くことが出来た。
興に乗って4~5曲の演奏を終えたオスカー・ピーターソンが、その直ぐ隣の席に座っていた私に握手を求めてきた。
相撲取りのような巨体、そして私の倍もあるほどの手の大きさとその感触は今もって忘れることが出来ない。

 
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