「砧」の意味が今頃分かった
しばらくブログを書かないでいるうちに、9月に入ってしまい、急に気温が下がって風邪までひいてしまう始末で情けない思いをしている。
最近は、毎日砧公園が通勤道になっているのだが、その「砧」という言葉の意味が気になっていた。
2~3日前のこと、「蕪村春秋」という本を読んでいたら、そこに気になっていた「砧」の答えが出てきたので、思わず、おぅっと叫んでしまった。同時に知らないことが際限もなく多いものだということを思い知らされることにもなった。
これから話すことは知りえたばかりのことを受け売りするに過ぎないことをお断りしておかねばならない。
昔、木綿の布が出回る以前、庶民の衣服の布は葛や麻で、その固い繊維を柔らかくし光沢を出すため布を木槌でたたく、その台のことを「きぬた」と言ったのだという。
その仕事は女性の夜なべ仕事であって、その音のもの悲しさが秋を象徴していると考えられ、俳句の秋の季語とされた。
当然、蕪村にも「砧」をよんだ句があるので一部ご紹介する。
「露深き 広野に千々の砧かな」
「小路行ば ちかく聞ゆる砧かな」
蕪村以外の俳人の句も書き留めておく。
「声澄みて 北斗にひびく砧かな」 (芭蕉)
「更しなの 蕎麦の主や小夜砧」 (一茶)
「聞かばやと 思う砧を打ち出しぬ」 (漱石)
だいぶ涼しくなったことで、砧公園にも犬たちの遊ぶ姿が増えてきた。
砧公園には「デング熱」を媒介する蚊が発生しないことを祈っている。